空に触れたかった

 

久々の画塾ではいつもの席が散らかってるからと言われ他の生徒ががっつり木炭デッサンしてる場所に放り込まれる。先生はこういう時に限っていつもタイミングが悪い。広い部屋の中で全ての石膏像に見つめられている。目のない彼らが私を見ている。木炭デッサンの視覚的な触感には落ち込んでいる時ほど寒気がするし不快に思う。画塾を自分の居場所というよりは先生に会える場所だと認識している気がする。絵を描くということは前提ではない。他の生徒の会話が聞こえる中何もわからず涙だけがゆっくり時間をかけて滲んでくる。孤独は感じないし孤立もしていない。ここにいる自分は気高い人間だと思いたいけどきっとしょうもない欠片。テーブルの上に置かれた無数のモチーフにも嫌気がさす。ポカリとコーラ、ソープディッシュ、訳の分からない形の一輪挿し、スパイダーマンの置物、ダースベイダーの頭、ストライプの紙コップ、ボロボロの参考書、多摩美の赤本なんて誰が買うの?もう愛想さえしたくないので皆んな笑ってても笑わない。絵を描く人間はみんな異常者で毎晩泣くような人種だと知ってはいるがなぜそんなにも書けるのかわからない。自信があるのか描くことで自分を保っているのか駆り立てているのかそれ以外か。みんなそれぞれ違う気持ちで絵を描いていますよと言われそうだねと簡単に納得するが自分が言いたいのはそんな事じゃない。この教室にある時計はどれも全て絶妙に時間がずれていて、入試対策として行われる時間内にデッサンする模擬試験の時はいつも生徒が混乱しているのをよく見ていた。もう生徒はほとんど帰って今部屋には私と先生と死ぬほど嫌いな精神病匂わせ女の3人しかいない。嫌な空間なのに帰る気はなくずっと丸椅子に座って世界素描大系を見つめている。私が死んだら家族もバイト先の人も悲しむだろうが先生はきっと何事もなかったかのように表面上だけ取り繕っていつも通り教室を開けるだろう。鉛筆が床に転がる音が響いて現実に引き戻される。目の前には無数の卓上デッサンが壁に貼られているがここに自分の絵が貼られることはない。藝大へ行った先輩が描いたデッサンは流石にわかるが他は正直どれも一緒に見えるしどれも上手いと思う。先生が私に描ける描けると言うのは何故か、死んでもお世辞は言えない人だから自分はそれなりに描けるんだと思うけどその言葉が自信に直結するほど幸せな性格をしていない。欲しいのは居場所ではなく死に場所だけどどちらも簡単には見つかってくれない。